「創造」のDNA を未来へ

創立100周年への道


山岸敬広社長のメッセージ

 祖父が創業して70年、スタッフ全員で70周年の記念日を迎えられたことを心から嬉しく思っています。祖父は私が生まれて間もなく他界しているので記憶はありませんが、祖父のこと、創業当時のことを想像する日が続いています。私が山岸設計に入社したのは2008年、ちょうどリーマンショックの年でした。それから5年後の2013年に代表を父から譲り受け8年が経ちました。この間、共に研究室で学んだ水野研の先輩や後輩を含め多くの仲間が増えました。70周年という節目を迎え、100周年に向けてどんな道を歩んで行くべきか想いを巡らせています。

 私の曾祖父にあたる甚吉は大工の棟梁でした。野々市で創業した山岸設計ですが、敬信の父である甚吉は野々市初めての公共建築となる尋常小学校の講堂を棟梁として建てたそうです。1950年に亡くなったのですが、その少し前の台風で講堂が倒壊したときに出てきた甚吉の棟札を今でも大切に自宅の神棚に飾っています。

 今まで歩んできた長い道のりの先に100周年という大きな頂が見えてきました。親子3代に渡ってご厚情をいただいている水野先生のメッセージにある「建築への熱い想い」を大切に、これからも力強く歩み続けて行きたいと思います。この「熱い想い」という言葉を見て、東京での修行時代、務めていた事務所代表である建築家の香山壽夫先生が執筆された著書「人はなぜ建てるのか」(2007年初版)の中の「情熱(パッション)と使命(ミッション)―建築家の仕事とは何か」という章を思い出しました。私が香山アトリエ在籍中に執筆された本です。この章の一節にはこう書かれています。

 情熱がなければ、立派な仕事はできない。燃えるものがなければ、良き結果は得られない。学問においても、芸術においても、あるいはスポーツにおいても、常に言われることばです。では、建築における情熱とは何でしょうか。何を目指すものなのでしょうか。

 建築は、人間が作る様々なもののうちのひとつですが、それは人の生き方、心の喜び、人と人とのつながりを生み出す最も基本的な役割を担っている特別なものです。技術の進歩、社会の変化に応じて、建築家は、常に新しい力を身につけていかねばなりませんが、人を安定して包む空間をつくるという、この最も基本的な建築の役割は、常に変わらず存在し続けます。従って建築家は、太古の昔から人間が持っていた力が常に生き生きと働くように、自分を保っていく必要があるのです。

 大学院時代に水野先生から「建築の楽しさ、力強さ」を学び、その後、香山先生から実務と共に「建築の仕事とはどういうものか」を学びました。
かけがえのない二人の師と出会えたことは私の人生にとって何よりの幸せだと感じています。常にこの二人の恩師の言葉が胸の中にありますが、その言葉を大切に熱い想いで建築に、そして地域に向き合い、人と人をつなぐ建築を創造していきます。

野々市尋常高等小学校講堂の棟札
曾祖父 山岸甚吉の名が入る

尋常小学校講堂(写真左)

創立70周年式典時の集合写真

山岸 敬広

Takahiro Yamagishi

PROF I L E

山岸建築設計事務所
代表取締役社長

平成20 年 山岸建築設計事務所に入社。
平成25年に代表取締役社長に就任。

熱い想い


水野先生のメッセージ

 最近、忙しくて製図台でゆっくり手を動かす時間が取れません。これではいかんと夜、布団に入ってから課題の空間を頭に浮かべ、エスキースするようになりました。そうして仕上げた作品の一つが「国土開発センター」の下で担った金沢駅西広場の歩行者専用道路で、駅と時計台駐車場とを結びハイアットホテルにも繋がるT字状の道を人間中心の賑わい空間とする計画でした。その現場空間は直線的なJR線の高く長い壁面とホテルの高い壁面に接するいかにも小さくかよわい空間なので、対比的な曲面・曲線案を夢見心地の布団の中でいくつも描きました。

 基本となる道路線形探しにはどういう訳かウナギが出てきてゆるいが強い曲線をいくつも演じてくれました。そして選んだウナギ線形に沿うように雨雪対策の水平屋根の揺らめきや植栽桝の膨らみを設え、さらにT字の交点に円盤状のキャノピーも加えました。頭中の映像はやがて構造の鉄骨、アルミ鋳物、木装のルーバーなどの建築部材が空間を彩り始め、実現したい熱い想いが高まり寝付きが悪くなりました。

 案を市・ホテル・「りんと」の関係者を交えた4者協議で練ってゆくうちに、キャノピーはつながる3者の出資で造るとか、ホテル内通路をオープンにしてキャノピーと時計台駐車場間の通路に提供する等も決まりました。りんとは道路面の壁を撤去しガラス貼とし、出入口を設けるなど道に開いた賑わい空間に一新しました。

 このように建築家の想いはやがて周りの関係者のワンチームへの想いに成長し、公と私のエリアマネージメントによる界隈環境形成に実りました。この営みに対し「いしかわ景観大賞」と「金沢都市美文化賞」が授けられました。

 山岸設計事務所70周年に際し私事を書くのは、事務所と50年にわたる交流やスタッフの多くが教え子であるなどの身近さからです。3代にわたる家系で設計事務所を継続するのは難しいと言われますが、各代それぞれが同じく建築への「熱い想い」を抱いていたから続いたのです。「小立野小学校」はその良い事例ですし、「野々市アトリエ」には市民と協働して環境に挑む建築家の志が込められています。

 即ち広がりある建築家の営みを牽引するエネルギーが「熱い想い」なのです。スタッフ一人一人が作品への「熱い想い」を自らの内部に育て、建築文化へ「熱い想い」をチームとして事務所内で共有し、依頼主や関係者と一体となって「熱い想い」の環境の実現に邁進することが必要です。その想いは確実に一人一人のやりがいとなり、次の100周年へのエネルギーになるのです。

国立工芸館の模型に見入る水野先生=「金沢のチカラ」展にて

恩師である水野一郎先生と=金沢建築館で

水野 一郎 氏

Ichirou Mizuno

PROF I L E

金沢工業大学教授

山岸 敬広を含め、山岸建築設計事務所に多数の教え子が在籍する。
谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館 館長。

美意識を高めて、一流の仕事をする。


山岸敬秀会長のメッセージ

戦後の復興期にゼロからのスタート

 弊社の設立者であり、私の父である山岸敬信は行動力があり、不思議な魅力のある人でした。高校時代は金沢市立工業高校建築科で学び、バスケットボール部で活躍するスポーツマン。リーダーシップもあり、生徒会長も務めました。卒業後は金沢に置かれた旧陸軍の第九師団で設計に携わり、その時の司令部隊長のすすめで陸軍中野学校へ入りました。情報戦士を育てる陸軍中野学校といえば、当時は秘匿の存在。学生は軍服を着用せず、平服姿で過ごしていました。面会も学校外で行われ、祖母が東京・神田の料亭に会いに行くと、父は白いスーツにオールバックという軍人とは思えない自由な出で立ちで現れました。今となっては笑い話ですが、祖母はその姿を見て「息子は脱走した」と思ったそうです。卒業後は満州の関東軍に在籍しましたが、第二次世界大戦が始まり、軍司令部としてスマトラへ渡りました。現地では偽装商社を設けて軍事情報を集め、地元の住民にも慕われていました。終戦もスマトラで迎えています。今思えば父はあまり戦争の話はしたがりませんでした。戦後20年が経った頃、ポツリポツリと当時の話をしてくれるようになりました。

 終戦から2年後の昭和22年にようやくスマトラから帰国。戦災復興院へ入り、出向先の石川県庁で建築資材の配給に携わった後、これまでの技術を生かして設計を始めました。設計といっても最初は登記所をもとに耕地整理の図面を起こすという仕事でした。

学校建築を契機に評価が高まる

 昭和26年、父は野々市で山岸建築設計事務所を設立しました。当初は社員数が3~4名という小さな会社としての船出。「お父さんが造った建物があるからついてこい」と言われ、行ってみると学校の裏手にある小さなトイレの建物だったこともありました。会社に転機が訪れたのは、野々市中学校の設計を手掛けたことがきっかけです。モダンなコンクリート建築で、教室は日当たりの良い南向き。日差しを遮るルーフを付け、展望台も設けました。デザイン性と機能性の高さが評価され、当時の文部省のモデルスクールに指定されました。全国から学校関係者や設計士が見学に訪れ、県内でいくつかの学校設計を任せられました。学校建築は今でも弊社の得意分野のひとつです。父が手掛けた野々市中学校の設計デザインを見ると、日本を代表する建築家・丹下健三氏の影響が感じられます。

 父はとにかく一流のものを好みました。「一流の仕事をするためには一流のものを身に付けなければならない」という思いがあったのでしょう。Yシャツもネクタイも生地を指定して誂えていました。家具にもこだわり、それに合わせて家を改装したこともありました。美意識の高さは自ずと仕事でも発揮されました。私は30歳で会社を継ぎましたが、父とは違い技術者ではありませんでした。父から受け継いだことは「誠意と正義を持つこと」、そして「ウィットがある付き合いをすること」です。人や仕事に対して誠意と機知をもって接する。常に上を目指す戦意を忘れない。良い仕事をする上でこのバランスを大事にしていきたいと思っています。

昭和30年代に創業者・山岸敬信氏が設計した野々市中学校

創業時メンバーである小﨑氏、室谷氏、釜谷氏、大場氏

製図版に向かう若き日の創業者・山岸敬信氏(1918.3.3-1980.2.22)

山岸 敬秀

Yoshihide Yamagishi

PROF I L E

山岸建築設計事務所
取締役会長

昭和55年に30歳で山岸建築設計事務所代表取締役社長に就任、平成25年に取締役会長に就任。

製図ひとつにも、個性を発揮してほしい


井村氏のメッセージ

設計士として金沢の街並み形成に貢献

 私は昭和33年に山岸建築設計事務所に入社しました。当時は野々市に事務所があり、大きなガラス窓を配した建物の周りにはのどかな田園風景が広がっていました。メンバーは所長であった山岸敬信氏を入れて7人ほどの小さな所帯。ちょうど所長が設計を手掛けた野々市中学校の校舎が完成し、会社の評価が高まった頃でした。戦後の復興期、香林坊の都市開発事業として町中にコンクリート建築が増え、私もさまざまな建物の設計を任せてもらっていました。まだ社用車がなく、移動の足は250㏄のバイクという時代。このバイクで、所長と一緒にいろんな現場を見て回りました。職場はアットホームな雰囲気で、昼休みにはみんなで並んでお弁当を食べていました。現会長である山岸敬秀氏は当時まだ就学前だったでしょうか。かわいらしいことに、私たちが持参した弁当をテーブルに並べ、蓋まで開けて用意してくれました。所長のお母様が作ってくれたお味噌汁の美味しさも思い出されます。

 山岸敬信氏は新しいものを柔軟に取り入れる人でした。事務所に最新のステレオが置かれていたことも所長のインテリアへのこだわりからです。また、猛暑の夏にはすぐさま井戸水利用の冷風機を購入してくれました。今のクーラーとは違って作動すると湿度が上がってしまい、和紙の製図用紙が湿気でゆがみ、線を描くのに悪戦苦闘したこともありました。

誰が描いたのか、ひと目でわかる図面を

 所長は本物志向の人で、一流の物に触れて、一流の人との付き合いを大切にしていました。人との交渉も実に巧みでしたね。私もさまざまな場所に連れていってもらいました。時には怒られたこともありましたが、その怒り方にも優しさがあり、必ず逃げ道を残してくれました。人を追い詰めることは決してしない人でした。所長と過ごした日々は私にとって財産。あの懐の深さ、人間的な魅力はなかなかマネできることではありません。

 私が設計士として駆け出しだった頃は今のようにパソコンもなく、手描きで製図をしていました。描いている途中で背後から所長のチェックが入ることもあり、ボールペンで直しを入れられると始めからやり直し。大変だなと思うこともありましたが、そんな指導があったからこそ成長できたと思っています。所長にはよく「メリハリのある美しい図面、誰が描いたのかひと目でわかる図面を描きなさい」と言われました。不思議なことに図面には性格が出ます。所長の教えが受け継がれ、時代が変わっても山岸建築設計事務所の描く図面は美しさに定評があります。

 現役で働く設計士の皆さんに伝えたいのは「仕事で個性を発揮してほしい」ということです。一流の建築物を見て、感性を磨けば自ずと個性も磨かれるものです。仕事は会社全体で行うものですが、一人ひとりが良い方向に個性を発揮すれば、それが重なり合って会社全体の評価を高めてくれるはずです。

昭和30年代頃の自宅兼事務所。右側のバイクに乗っているのが井村氏

昭和48年法人に改組時の作品集より 創業者 山岸敬信氏

井村 重和 氏

Shigekazu Imura

PROF I L E

山岸建築設計事務所
営業部長

昭和33年に山岸建築設計事務所に入社。事務所の創成期から42年以上にわたり、会社の成長を支える。平成12年に定年退職。